みどり

みどり

みどりの時期になると、遠出したくなる。嘘、いつもしたいと思っている。週末にちょっと、というと片道2時間くらいがちょうど良い。では2時間くらいの距離はどこかいうと、上野と高崎間くらいだ。群馬県高崎市と言えば友人が住んでおり、年に3回くらい顔を見せに行く。彼とは4年くらいの付き合いで、星の名を冠した珈琲屋で笑顔をきらめかせている。もともと僕はそこの客であったわけだが、埼京線の高架下、緑エプロンのよく似合う彼と、いつしか顔なじみになっていた。いまは遠く、高崎に転勤になってしまい、僕自身も関東平野の北端が恋しくなると顔を出しに行く、というわけだ。一方で向こうは、よく横浜に用事があるらしく、月に1度は僕の家を通過して行くらしい。

この区間、移動のための選択肢はいくつかあって、つまり高崎、上野間をどのように移動するのかで迷うことになる。新幹線ならあっという間だろうし、普通車でロングシートに座っていても、ボックス席を狙い缶ビール片手に旅するも良いだろうし、まさにその時の旅情で決めたいものだ。2時間弱への移動への考え方、きっと将来の妻と議論することになるのだろう。少なくとも子どもができるまでは…か。

上であえて書かなかったが、僕は専らグリーン車で、進行方向を向きながら読書するのが好きだ。読む本は何でもよくて、小説、新書、洋書、何なら読んでるフリだけでもいい。「27の青二才が!」、などと人生の先輩に思われたくなく、大人っぽく見えればなんでもいい。だから、大概ブラックの缶コーヒーも一緒に買う。あほらしい。
もともと集中力があるわけではないし、本だって数十ページ進めばいい方だ。読書するために鈍行に乗るんだ、などとうつつを抜かしながら、ふつふつと湧く旅情。うつらうつら窓の外を見ながら、結局は幼少期よろしく、景色を見て喜ぶのだから人間そう簡単に変われない。

1月のある日、久しぶりに高崎に行くことにした。寝坊して昼過ぎに上野駅を出た。明太子の広告に見送られ、もう京浜東北線区間に入ったのかなとか、赤羽駅は人が多いのかなとか想像しつつ、たまに本から視線を離す。窓を流し目で見る。流し目、物憂げというのが旅情を煽るポイントだ。ところで、皆さんも経験があるかもしれないが、目をあげると「あれ、ここ見たことがある」、そんな場所に出会うことはないだろうか。僕の場合、不思議なことに、それが必ず3か所ある。まず王子駅。ロータリーの雰囲気と飛鳥山公園とですぐにわかる。次に北本駅。これはなぜだか分からないのだが、駅前にあるバーの看板を目撃することになる。死ぬまでに人生で一度は行ったみたい場所だ(そのお店がなくなるのが先…かもしれないが)。最後に群馬県に入る直前、神保原駅(じんぼはらえき)。駅直前にかならず気づく。そうそう橋の前にこの駐車場があって、とか思い出し、県境のまさにその上で群馬入国を感じることができる。長い長い橋なのだ。隣の橋を走る車を抜かしながら、新町駅に到着すれば、旅の終わりが近づいてくる。駅名標にぐんまちゃん。あーあ、もうここまで来ちゃった。次の章までまだ長いし、と言い訳をつけて読書をやめるのもこの駅。後はひたすら群馬県に視線を落とす。ワンボックスカーが多いなとか、家が気持ち大きくなったな、とか。

高崎駅に着いてしまえば、それは地方のよくある大きな駅で、正直に言うと面白くない。ただ、両毛線や水上線のオレンジと深緑の車両に「こっちに乗りなよ」と呼ばれているような、否、乗りたい気持ちを堪えつつ改札へ向かう足取りが重くなる。ちょうど上野を出て2時間。座りっぱなしだから、コーヒーも足先もすっかり冷えてしまっていた。年3回と言いながら、その時は半年ぶりだったろうか。1月の寒いコンコース、改札の向こうにはいつのまにか駅弁の店構え。だるま弁当、峠の釜飯の魅力は変わらない。異国を感じ、小腹が空き出す頃、今晩は友人と何を食べようかと考えていると、ほぼ毎回Suicaの残額不足の音で我に帰るのだ。儀式。

到着したのは夕刻、遠目に彼の店を覗くとまだ仕事中のようだった。相も変わらずお客様に笑顔を振りまきつつ、店内は受験を控えた学生で賑わっていた。レジを打つ彼が僕に気づく。あとちょっと待ってて、目で訴えられたような気もして、ならば店内で待とうと、ほうじ茶のラテを頼むことにした。「久しぶり。変わらないね」。彼はお釣りを手渡しながら、僕に申し訳なさそう言った。「そりゃそうさ」と僕は答えたのだが、飲み物を受け取るランプの下で待つ間、遠目に彼のエプロンが黒色に変わっていることに気づいたのだった。